グアテマラの特色
一般、歴史、社会、地誌
1.国名の由来
現在の有力な説(マヤ言語アカデミー)は、ナワトゥル語で「森林の大地」を意味する「グアテマヤン」という先住民語が変化して「グアテマラ」になったというものである。
2.常春の国
首都グアテマラ市は標高1,500mの高原に位置する中米最大の都市である。首都グアテマラは一年を通じて温暖な気候であり、色とりどりの花が咲き乱れることから「常春の地」とも呼ばれている。
3.マヤ文明の国
グアテマラは、マヤ系先住民民族が紀元前より居住しており、3世紀から9世紀にかけて、建築、彫刻、数学及び天文学を中心に稀に見る高度な文明を築き上げた。特に、天文学、数学、建築等に優れ、インドと同じく「0(ゼロ)」の概念を発見していたことは特筆される。現存するティカル遺跡(世界遺産)やマヤ暦は同文明の粋。
4.多文化国家
グアテマラでは人口の約半数をマヤ系先住民が占め、22の言語集団が居住する。マヤ以外にもガリフナ(アフロカリビアン系)、シンカというグループも存在、言語や文化の多様性という点で際立つ。
5.グアテマラ富士
グアテマラ市の南西に位置するアグア火山(水の火山の意味)は、3,766mの標高を有し、高さといい形といい我が国の富士山に非常に似ており、在留邦人の間では「グアテマラ富士」と呼ばれ親しまれている。
6.グアテマラ桜
「グアテマラ富士」同様に在留邦人に親しまれているものに「グアテマラ桜」がある。これは、スペイン語で「マティリスグアテ(Matilisguate)」と呼ばれる花であり、色が日本の桜によく似ている。
7.観光資源豊かなグアテマラ
グアテマラでは、マヤ文明のティカル遺跡、キリグア遺跡及び植民地時代の古都アンティグア市がユネスコにより世界遺産として認定されている。更に、最近ではエコツーリズムのブームでグアテマラを訪れる観光客も増加している。
2000年4月、日本人観光客殺害事件が発生して日本人観光客数は一時的に減少したが、日本のテレビ局や雑誌では、しばしばマヤ遺跡、国鳥であるケツァル鳥、アンティグア市のイースターの模様等が紹介される。
人物
1.グアテマラはノーベル賞受賞者をこれまで2名輩出している。
(1)ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(1899~1974)
1967年にノーベル文学賞を受賞したラテンアメリカを代表するグアテマラ人小説家。主な著書に「大統領閣下」等がある。「トウモロコシの人」では、マヤの伝説を掘り起こし、グアテマラ人の忘れ去れた歴史の回復に力を注いでもいる。これは、彼の生きた時代の過酷な生活を送っていた先住民へのエールでもあった。
(2)リゴベルタ・メンチュウ(1959~)
1992年にノーベル平和賞を受賞したグアテマラ先住民人権活動家。出身は、キチェ族。内戦時代の軍の先住民への弾圧、迫害を目にした父親ビセンテは、農民統一委員会に入ったが、軍は家族を殺害した。リゴベルタはメキシコに亡命し、グアテマラの人権侵害、先住民への迫害等につき国際世論に訴える活動を実施してきている。同女史の生き様を知る文献としては「私の名はリゴベルタ・メンチュウ:マヤ=キチェ族インディオ女性の記録」及び「大地の叫び グアテマラ先住民族の闘争」がある。
2.枢機卿に就任したケサーダ大司教(1932~2012)
グアテマラ和平プロセスにおける調停者として活躍した「ロドルフォ・ケサダ・トルーニョ大司教」が2003年10月ヨハネ・パウロ2世法王より、枢機卿に任命された。ケサーダ枢機卿は、グアテマラ国籍の枢機卿としては史上3人目である。
文化,食文化
1.グアテマラのコーヒー
グアテマラの特産品として有名なコーヒーは、標高1,000Mから1,500Mで朝晩の気温差が大きい場所で採れるものが、やや酸味があって美味しいと言われている。
日本は現在米国に次ぐグアテマラ産コーヒーの輸入国となっており、グアテマラのコーヒー総輸出量の20%を占めている(2017年 グアテマラ・コーヒー協会:ANACAFE)。日本では、コロンビア産のコーヒーとブレンドすれば最高の味がするといわれ、グアテマラ或いはアンティグアの銘柄で取扱われている。またグアテマラの有機コーヒー栽培も有望視されている。
2.サカパのラム酒
中米、グアテマラはラム酒の産地としても知られ、サカパ市は、「サカパ・センテナリオ」という当地では著名なラム酒(23年もの)の産地である。同ラム酒は、世界ラム酒コンクールで金賞を獲得しており、現在では日本でも販売されている。
II.中米の世界への貢献
~食生活への影響~
カカオ(チョコレート)、トマト、さつまいもなどメゾアメリカ(メキシコ~中米)原産であるが世界を席巻した食物は少なくない。
3.日本・グアテマラ関係
1.政治・経済・経済協力
(1)わが国の対グアテマラ経済協力
(イ)(日本は対グアテマラ二国間援助の主要ドナー)
わが国は対グアテマラ二国間ODA実績(支出純額ベース、DAC統計より)において、95年(暦年)以降米国を抜いて第1位となり、2000年までトップドナーとしての地位を維持。2013年は第5位。
(ロ)(和平プロセス支援)
グアテマラでは、1996年12月29日にグアテマラ政府とゲリラ連合組織URNG(グアテマラ国民革命連合)との間で「最終和平協定」が署名され、中米最長36年間に渡る内戦が終結した。同協定署名以降、我が国は積極的に同和平協定の実施を支援してきている。
(ハ)日本・グアテマラ友好病院
我が国は、カリブ海に面する主要都市プエルト・バリオス市に位置する日本・グアテマラ友好病院の建設及び医療機材整備を行い、2003年12月にポルティージョ大統領(当時)出席のもと竣工式が執り行われた。
(2)2003年グアテマラ総選挙への我が国選挙監視団の派遣
我が国は、グアテマラ政府からの要請に応え、大統領選挙(第1回投票)に際し、狐崎専修大学教授ほか計8名を、また、決選投票にも5名の選挙監視要員を派遣し、米州機構(OAS)の下で選挙監視活動を行った。また、OASの選挙監視活動支援のため約9万ドルの資金協力を行った。これらの協力は、グアテマラ政府及びOAS関係者より高く評価されている。
2.人物交流・文化交流
(1)日・グアテマラ外交関係樹立80周年
日本とグアテマラは、1935年(昭和10年)2月20日に、在メキシコ日本国公使のグアテマラ兼任公使任命をもって始まり(中米各国も同日)、同年グアテマラ側は在中華民国大使を日本兼任公使に任命した。
2015 年は、外交関係樹立80周年を迎え「日・中米交流年」として、様々な交流事業を行った。
(2)皇室外交:常陸宮同妃両殿下および秋篠宮同妃両殿下のグアテマラ訪問
97年9月、アルスー大統領(当時)の招待により常陸宮同妃両殿下が当国を公式訪問された。両殿下の当国御訪問は、我が国皇族として初の中米御訪問となり、我が国としてグアテマラ和平実現に対する祝意を伝達する機会となり、グアテマラ官民の大歓迎を受けられた。
また平成10年1月には、皇居にて行われて歌会始(お題:「道」)において常陸宮妃殿下は、グアテマラにつき「停戦へながき道のりを歩み来しアルスー大統領の手は温かし」との御歌を詠まれた。
2014年には秋篠宮同妃両殿下が当国を訪問された。
(3)一世紀前の人物交流
(イ)写真家「屋須弘平」
金星の太陽面通過(1874年12月9日)をきっかけとし、岩手県藤沢生まれ、蘭学医師の息子であった「屋須弘平」は、メキシコ天文学者フランシスコ・ディアスと知り合い、メキシコに渡ったが、ディアスのグアテマラ公使としての赴任に伴い、1878年グアテマラに同行した。当時のグアテマラ市は人口5万人程度の小さな町で、仕事も少ないため、屋須は写真館で写真術を習い、腕前を上達させた。1890年にはグアテマラに永住を決意、85年にはアンティグア市に移り住み、写真館「Fotografia Japonesa, Juan Jose Yas」を営み、19世紀末及び20世紀初頭のアンティグア市の模様を数多く写真に残している。その写真の一部はメソアメリカ地域調査研究所(CIRMA)に保存されている。
アンティグア市住民の記憶にも屋須は「YAS」として残っている。
(ロ)ラ米のラフカディオ・ハーン「エンリケ・ゴメス・カリージョ」
20世紀初頭、コラムニストとしてパリにて活躍したエンリケ・ゴメス・カリージョは、その時代に文学論、社会論、紀行文等を数多く発表し、「近代主義派」として、ラ米文学の発展に大いに貢献した。
そのカリージョは、日露戦争直後(1905年)の日本を訪問しており、3冊の日本体験記を出版している。『誇り高く優雅な国、日本』(グアテマラ在住児嶋桂子女史訳(人文書院発行)、『マルセーユから東京へ』『日本の魂』である。『誇り高く優雅な国、日本』の中で、近代化の進む街の情景、日光、吉原、日本人の自然観、精神世界、日本の詩歌についての観察に加え、興味深い紹介をして、西語世界における日本紹介に大きな役割を果たした。
(4)議員交流 ~日本・グアテマラ友好議員連盟~
故小渕総理は日本・グアテマラ友好議員連盟の会長であった。同議員は学生時代にグアテマラを訪問したのに加え、91年には特派大使(当時)として、翌92年には日「グ」友好親善議員団の団長(当時)としてグアテマラを訪問し、合計三度グアテマラを訪問している。
(5)日本・グアテマラ音楽交流
当国の代表的作曲家であるホルヘ・サルミエントス氏(1931~2012)は、1989年に訪日し、広島を訪れ、核兵器のない平和な世界を願うヒロシマをテーマにした『ヒロシマのピカ』を作曲。この曲は、原爆投下50周年の1995年8月に名古屋と東京において演奏され、大きな感動を呼んだ。同演奏会の指揮をし、初演したのが小松一彦氏であった。
1999年7、8月に当地にて開催された「日本文化月間」では、グアテマラの伝統楽器であるマリンバを使った作品の作曲で著名な高橋裕氏及び同夫人の晴美女史がグアテマラ訪問し、グアテマラ国立交響楽団とそれぞれの作品を演奏した。また、ホルヘ・サルミエントス氏の「ヒロシマのピカ」が当地8月5日(日本時間8月6日の原爆投下日)に合わせて初演され、当地の話題となった。
小松一彦指揮者は、2001年から4年間、グアテマラ国立交響楽団の客員指揮者として毎年グアテマラを訪問し、国立交響楽団と国際コンサートを行い、両国の音楽交流に貢献した。
2011年には、ホルヘ・サルミエントス氏がグアテマラ人として初めて叙勲(旭日小綬章)された。
2012年には、東日本大震災1周年の機会に、国立劇場で追悼コンサートが行われ、ホルヘ・サルミエントス氏の子息イゴール・サルミエントス氏の指揮にて「ヒロシマのピカ」が演奏された。
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